六、新しい人生の始まり

三、「一即全・全即一」のプロセス

私達は「一即全・全即一」へ向かって歩いている旅人です。「一即全」とは一つが総てを含んだ全体になっているということです。そして、「全即一」とは、総てを含んだ全体が一つになっていることを意味します。また、「一即全・全即一」とは大宇宙大生命そのものを表しています。そのゴールへ向かって私達は進んで行くということです。その目的地までの道程は途方もなく遠く長いのですが、気を長くして、のんびり歩いて行くだけです。一回の人生では、そのゴールへ行くことは到底、不可能なことです。ですから、私達は前の人生の問題や、他の人から借りたものを少しずつ返済しながら、何度も何度も人生を繰り返しながら歩いていかなければならないのです。 
私達は、毎日、夜が来ると布団の中に入り睡眠を取ります。そして朝になれば起床して、再び一日が始まっていきます。そのように、私達は、この世とあの世を交互に行き来している存在なのです。この世の人生は非常に短いものですが、生命そのものは不滅の存在であり、私達は最初から永遠の時間を持っている生命存在であるということです。ですから、人間があの世へ旅立つということは、私達に夜が来て、毎日、眠りに入ることと全く同じ事を意味しているのです。眠りにつけば楽しい夢を見ることができますから、その夢を楽しみにして、次の世界へ旅立っていく事もまた素晴らしいことではないでしょうか。
そのように人間は長い旅をしながら、「一即全・全即一」という目的地へ進んでいくことになっています。それでは、「一即全・全即一」へ至るプロセスを十に分けていきます。
ここでは「一即全・全即一」を、「全一」という表現で使用すると共に、両方の言葉を、全く同じ意味で使用しています。

「全一」を探すことを決心する
「全一」を聞く、知る
「全一」を見る
「全一」を飲む
「全一」を食べる
「全一」に成る
「全一」を忘れる
「無」になる
「有」への帰還
「全一」の活動

まず、最初の「全一を探すことを決心する」段階です。
これが一番重要なことになります。その理由は、この決心が全てを決定していくことになるからです。この決意こそが、全ての始まりであり、全てを導いていくことになっていくからです。まず、人間の心の中において、その決意や意識が生まれるということは、非常に神秘的な出来事です。なぜならば、それは人間の力ではできないことだからです。その人が最初に想った発心の中に、実は全ての救いが含まれているのです。発心した瞬間に、もうその人は救われているという事を表しています。実は人間は、そのことが全く分からずに、自分で全くそのことに気がつかないままに、全ては大生命によって既に導かれているということを表しています。全ては、この「全一」を探そうとすることから始まっていきます。しかし、その実際は、「全一」そのものが、その人の内部に影響を与え、直接的にその人を導いていくということです。その人は、漠然と何か分からない気持ちによって、「一即全・全即一」というものに自然に興味関心を持ち、それを探求していくことを強く決心をするのですが、まだこの段階では、「全一」のことは全く分からない状態なのです。

次に二番目の「全一を聞く、知る」という段階です。
この段階では、「全一」に関することで、それを知っている人からその話を聞いたり、その手立てとなる書物を集めたりして、その知識を得ていく時期です。いわゆる、情報を集めていく段階です。まだ「全一」という意味は依然としてよく分からないのですが、自分の心の中で、「全一」ということに関する興味、関心が非常に高まって来る段階です。今までの自分は、多くの争いや混乱という二元の対立構造の中で、ずっと生きてきたのです。そして、それまで自分が考えていた善悪ということも疑問に思うようになってきました。その結果、あらゆることに対して、限界というものを感じてしまう自分を発見したのです。そして、このままの状態でいけば、自分の未来というものが、暗く悲しいものになってしまうことが予想出来てしまう事が分かりました。そして、このような分裂した苦しい自分をどの方向に変えていけばよいのか苦悩していた時に、新しい教えに巡り合うことができたのです。そして、「一即全・全即一」という教えを聞き、それを知ることによって、今までの自分という殻が少しずつ破れ始めてくるような何か大きなものを感じ始めている段階です。

次に三番目の「全一を見る」という段階です。
これは、自分に「全一」を教えてくれる師が現われてくる段階です。東洋の教えにあるように、「準備が整った時に、師が現われる」ということを表します。自分が真摯に「一即全・全即一」を求め続けていくと、自分の受け入れ態勢が次第に整っていき、やがて自分に最も必要な時に、一番、相応しい師と出会うことになっていくのです。その師は、既に「一即全・全即一」に成っている人です。三密と言われる意業(意志)・語業(言語)・身業(行動)が完全に一体化している存在です。そうした大宇宙と一体化した悟りを得ている師と、その生において、自分の身体でもって、ようやく対面することができるようになるということです。そして、自分の眼で、直接、「全一」の存在である師を見ることができるようになったということを表します。

四番目の「全一を飲む」という段階です。
「全一を飲む」とは象徴的な表現です。前段階において、自分が探し求めていた「一即全・全即一」である師と出逢うことができました。そして、その師からほとばしり出る言葉の全てと、その声の強弱の響き、そして一挙手一投足を、頭だけではなく、自分の五感とそれ以上のものを使って、まるで光のシャワーを浴びるようにして吸収していくことを表します。液体は身体に吸収されやすいので、すぐに理解ができ、大きな変化が現われてきます。そして、自分の殻が割れ始めてくることを感じている段階です。

五番目の「全一を食べる」段階です。
ここはまだ四番目の「全一を飲む」の延長上にあります。しかし、「一即全・全即一」の内容は、確実に、高く、広く、深くなっています。「全一を飲む」段階では、それは液体ですから、身体に吸収しやすく、努力もそれほど要りません。しかし、「全一を食べる」段階では、食べるものが固いものですから、それを自分が飲み込みやすくし、消化しやすくする為に、何度も何度も、よく歯で噛み砕いて食べていかなければなりません。師の教えを自分で何度も咀嚼し、よく舌で味わいながら、それらを飲み込み、そして自分の内部において、充分それらを消化吸収していかなければなりません。そうすることによって、初めて自分の栄養分となっていくことができるからです。そして、それが自分の新しい血液となり、新しい細胞や筋肉となっていくのです。
また、「全一を食べる」とは、師から教えて頂いたことを、自分の身体を使って、あらゆる場所において実験してみることでもあります。自分の身体で実験するということは、自分自身の生命を賭けて行うことも含まれる為に、時には大きな勇気と覚悟が必要になってきます。しかし、自分の生命を賭けた実験というものは、師の教えを理解し、体得する為にはなくてはならないものです。あらゆる場所とは、生活を通しての全ての場所ということです。それは、会社であり、家庭であり、遊び場であり、それ以外の全ての場所を含むものです。それ専門の特別の場所でも良いし、そうでなくてもよいのです。場所は特に選びません。そのようにして、師の導きによって幾つもの門を通っていき、様々な失敗と成功の体験を経験していきながら、「一即全・全即一」を自分の身体を通して食べていく段階です。
次に六番目の「全一に成る」段階です。
六番目は、師と巡り合ってから、長い時間を経た後に、ようやく「一即全・全即一」ということに一体化していく段階です。自分自身が、初めて自他一体の宇宙的悟りを得る段階です。
しかし、この段階を超えていく直前に、最後の試練として、全人類の見本となる前に「魔」が現われてきます。釈迦とイエスは、全人類の教師として、全人類の進化と成長の為に、宇宙の創造者が送り与えてくれた存在です。その釈迦が悟られる直前において、釈迦の前に、肉体の欲望を煽る存在が複数の女性の姿となって現れ、釈迦の成道を妨げる為に最後の試みをしました。また、イスラエルにおいては、砂漠の中にいるイエスの前にサタンが現われ、様々な誘惑をして、最後の試みをしたのです。釈迦もイエスも、それらの「魔」を完全に退けましたが、この厳しい人間としての最後の試練を無事通過することによって、完全に地上の人間意識を捨て去ることができ、「一即全・全即一」そのものに成ることができたのです。  
「全一に成る」段階とは、自己の生命と他の生命とが完全に結ばれ、決して離れることはできないということを完全に了悟する段階です。それは、大宇宙の普遍意識と一体化した状態です。別の言葉でキリスト意識とも呼ばれるものです。その時、自分自身というものが無限大に拡大していき、もはや何ものにも縛られることはありません。師が語っていた言葉の意味が、心底から理解できます。もはや、そこには道を探し求めていた小さな自分というものは存在しません。地上にいるのは大生命、大宇宙という一つの中に溶け切ってしまった肉体だけです。しかし、そのような状態になっても、まだ先がある事を感じている段階です。

そして、七番目の「全一を忘れる」段階に入っていきます。
この段階になると、もはや通常の人間の意識を超えた段階に入っていきます。それは自分というものは地上に肉体を持つ人間なのですが、この段階では、その自分という存在自体さえ忘れていく段階になっていくのです。しかし、この段階では、まだ完全に自分というものから離れている段階ではありません。「一即全・全即一」の悟りを得ても、まだ自分が「有」の状態であり、自分がまだ完全な「無」の状態になっていないことに気づいてしまうからです。そして、自分が未だに進化と成長の途上であることということが分かるのです。そして、より浄化し、より空になっていかなければ本当の「一即全・全即一」の意識に達することはできないということに気づき、そのことによって、自分自身という存在や、「一即全・全即一」ということさえも忘れていく段階です。

次に八番目の「無になる」段階です。

それまでは自分という意識があったのですが、ここでは、その自分自身という意識そのものが完全に消えて無くなってしまう段階です。そして、自分を取り巻く世界そのものが、すっかり変わってしまいます。その結果、自分という存在が空気のような、真空のような「無」そのものになってしまった段階です。つまり、忘我三昧の状態に入ってしまっているのです。それは自分という存在が全くの無執着の状態であり、大宇宙・大生命そのものになってしまった段階です。

次に九番目の「有への帰還」の段階です。
前の段階において、自分という存在が、忘我である「無」の状態になってしまったのですが、そのような自分にも、再び春が訪れて来る段階を表します。そして、自分という存在が、「無」の世界から「有」の世界に、再び帰って来る状態になるのです。「有」の世界とは、私達が住んでいる物質的現実世界のことです。そして、自己意識が地上に帰還することによって、「有から無、無から有」という一つの大きな循環プロセスが完成することになります。しかし、再び、「有」の世界への帰還をした自分という存在は、もはや、以前の段階において「一即全・全即一」に成った存在ではもはやないのです。

次に最後の「全一の活動」の段階です。
再び、物質的現実世界へ帰った自分は、完全に「一即全・全即一」そのものと成っています。そのように、再び、この物質世界へ帰還したことには大きな目的があるのです。それは全世界、全人類の為に「一即全・全即一」を全ての人々に語り伝えていくということです。かつて、インドの地において釈迦がそれを実践しました。またイスラエルにおいては、イエス・キリストがそれを実践しました。そして、約2500年から2000年前に行われた、全人類史に残る偉大な二人の「全一の活動」によって、「一即全・全即一」という真理の種が蒔かれ、育てられて、触発されていくことになりました。そして、その大きな真理の波と真実の生命のうねりというものが、時間・空間を超え、世代を超えて、全世界・全宇宙へと、今現在も、そしてこれからも、永遠に駆け巡り続けていくのです。