ギリシャの光
ブリンディシは、アドリア海に面した歴史ある港町です。ブリンディシは、イタリアからギリシャへ行く玄関口であり、古代ローマ時代では、アッピア街道の最終地点であり、中世では、十字軍を送りだす重要な港でもありました。
私は1981年、12月29日にブリンディシに着き、ここで一泊したのです。
ここでの宿は現地のドミトリーを選びましたが、大勢の人が集まる所で宿泊すると、旅行者にとって有益な情報を得ることができるのです。
すると、そこには、三人の日本人が泊まっていました。
一人は画家で、もう二人はカップルの旅行家でした。私は少し年齢が下でしたが、その三人は大体、同年代でした。
私から観ると、その三人共、非常に個性的で、何か大きな影響力を感じさせるような人達でした。何しろ、イタリアの一番端であるブリンディシで出逢うこと自体が不思議な事でした。
その頃、私は体力的にも、精神的にも大きな限界にぶつかっていて、今回の自分の旅について大きな不安感を抱えていたのです。これから、私はどこへ行ったら良いのか、全く分からなかったのです。
そのことについて、私は、夫婦で来ている旅行家の御主人に尋ねたのです。
「これからの私の旅を、どのように、プランすれば良いと思いますか?」
「どこの国のエアー・チケットを持っているのですか?」
「パキスタン・エアーの南周りで、一年間のオープン・チケットです」
「それでは、あなたが使用するパキスタンの飛行機が乗り降りする所は、どの国の、どの場所ですか?」
「パリ、カイロ、カラチ、バンコック、マニラ、東京です」
「それでは、ギリシャは暖かいから、まず、ギリシャでゆっくり体力をつけてから、またヨーロッパを回れば良いと思うよ。その後で、パリからエジプトのカイロへ飛んで行って、そこからパキスタンのカラチへ飛んでいくのさ。そして、パキスタンから陸路でインドに入り、インドを充分、楽しめば良いと思うよ。その後で、インドから別会社の飛行機便に乗ってタイのバンコックまで行けば、後は、バンコックからフィリッピンのマニラへ行き、マニラから東京へ帰って来ることができるよ」
「そうか! これは凄い! ヨーロッパの後は、エジプト、インドか!」
このブリンディシにおいて、漠然としていた旅のグラウンド・デザインが、ようやく明確に作られたのでした。後は、その時に応じて、行きたい国を付け加えていけばいいと考えたのです。インドに行くことは、当初はあまり考えていなかった事でしたので、気持がワクワクしてきました。
それまでは、ヨーロッパで旅を終えて日本に帰国した方がいいのではないか、とも考えていたのですが、その人と話をしたら、急に元気が出てきたのです。それは、実に不思議な出逢いでした。
30日の夕方、私はイタリアのフェリーボートに乗り、ブリンディシを出発しました。それは新しい出発のようでした。
夜のアドリア海は、思ったより波は高く荒れていましたが、フェリーは、私達に関係なく、波を切りながら、順調にアテネに向かって進んで行ったのです。
その夜、私達は船の中で、御祝いの酒盛りをして騒いでいました。
「イタリア、万歳! ギリシャ、万歳!」
飲みつけないブランデーを飲んで、船酔いと酒酔いのダブルパンチになり、すっかり訳が分からなくなりながらも、なぜか、じっとしていられないのが日本人なのでしょうか。私達は、もう完全に浮かれてしまい、大晦日と正月が一度に来てしまったような気分になっていました。
「お前ら、アホか!」
他の外国人が、そのように思うかもしれませんが、実際に、大晦日と正月は、日本人全体が大騒ぎをするのが日本の伝統なのです。しかし、そんな勝手な理屈をつけながら、お酒を飲んで、ウサを晴らして騒いでいる人々は、本当は、皆、寂しがり屋さんで、人恋しい人達ばかりなのです。
夜が少しずつ明けて来るにつれて、周囲の様子が徐々に見えて来るようになってきました。白く美しいフェリーは、波を切りながらギリシャに徐々に近づき、そして、アテネに入っていったのです。
ギリシャにフェリーが近づいてくると、船の上から海底の様子が、はっきりと見えてきました。それほど、海が澄み透っているのでした。
私達は、その海の色の美しさに、言葉が出ませんでした。
「ギリシャの海の色は、コバルト・ブルー! 」
その海では、まるで人魚が泳ぐような世界に感じられたのです。ギリシャでは、素晴らしい絵が描けるはずです。なぜならば、このような美しい自然は見た事がないほど美しいからです。
コバルト・ブルーの海、透明で光輝く青く澄み渡った大空、爽やかな空気、白い家々・・・。
総てが心地よく感じられ、総てが夢のようでした。
私と画家は、フェリーのデッキから、ギリシャの深く味わい深い海を、ただじっと見つめていました。
「とうとう、ギリシャに来た!」
心の中で、一つの達成感のようなものが、グッと込み上げて来ました。
そして、アテネの外港都市であるピレウスに着いたのは翌日、31日の早朝でした。
朝の光が少しずつ射してくるにつれて、うっすらしていたピレウス港にも、段々明るさが増していきました。そして、私達三人は、アテネに向かって歩き始めていったのです。
私は、ある格安ゲストハウスに宿泊することを決め、アテネの街を散策したのです。シンタグマ広場には、大勢の若者が集まり、楽しそうに話をしていました。
アテネの女性は、皆、まるで古代の女神様のように見えてしまうのです。
「結婚したいな!」
絶対に叶えられない夢を、人間は見たがるものです。私が、デレデレになりながら、ギリシャの女性に見とれていた時です。
いきなり、一台のオートバイが私に向かって突進してきたのです。
「あ! 危い!」
それは、ほとんど、避けることが困難な状態でした。
「キキキー!」
急ブレーキが、かかりました。
そのオートバイは、私の身体を少し接触しながら、止まったのです。
事故に遭うのは、こういう時です。私は、危うく怪我をするところでしたが、何とか無事で、オートバイと接触するだけで済みました。
「いやはや、いやはや」
「全身から血の気が引く」といいますが、この時は本当にそう感じました。
ギリシャには、美女が多いため前方の注意が散漫になりますので、特に注意が必要です。(イケメン男性でも要注意です) 一瞬先は、何が待ち受けているか分からないですからです。
一度、自分の部屋に戻り、気分を直しから、私はアゴラへ出かけました。ここは、ソクラテスやプラトンが一緒に、イデアの世界や、徳、善、美、政治、国家について、語りあいながら歩いた市場であり、広場です。
私は、そのことを考えると、時間を忘れてしまいそうでした。
「ソクラテス、プラトンが歩いた道を、私は今、歩いているのだ」
私の足は軽くなって、宙に舞い上がりそうでした。
通りの両側には、面白い土産物や、珍しい物が数限りなく販売されていました。
「ジャパン! ジャパン! ジャパン!」
一人の老人が、盛んに大きな声を出していたのです。
どうやら、アテネで買ってくれる一番の御客さんは、日本人のようでした。
「この場所でも、日本の国名を聞くとは、いいものだ!」
80年代の日本は、経済的成長期でした。バブルがはじけたのは90年頃で、それまでは、まだまだ右肩上がりに発展していたのです。
世界有数の観光地ですから、日本の男性は、そのギリシャ美人の甘い言葉に釣られて、いつの間にか、高級なものを買わされてしまうのです。
ギリシャの偉人といえば、やはりソクラテスとプラトンです。この二人が放った巨大な光は、約2500年を経た今日でさえも、私達に投げかけられています。
ソクラテスという人は、不思議な人です。非常にスピリチュアルな人です。
ソクラテスには、ダイモンというスピリットが付いていて、ソクラテスの意に合わない時だけ、「それはしてはならない」と言いました。
ソクラテス自身も、何度も幽体離脱を繰り返し、目に見えない世界を直接的に体験していました。
ソクラテスには、突然、立ち止まって全く動かなくなる癖がありました。ある時などは、弾の飛び交う戦場において、同じ所に立ち止まって動かない為に、兵士の一人が、ソクラテスの立っている傍に寝椅子を置いて見張っていたといいます。また、ソクラテスは、自分の肉体から抜け出して、地球を出た宇宙空間を体験したことも語っています。
要するに、ソクラテスは非常に高度なスピリチュアル人間で、目に見えない世界を直接、見、聞き、知ることができた人間だったのです。
ソウラテスの「無知の知」の話は有名です。
ソクラテスの信奉じ者であるカイレポンは、ある時、デルフィのアポロン神殿において、「ソクラテス以上の知者はいるか」と御伺いを立てました。すると、その御神託は、「ソクラテス以上の知者はいない」でした。ソクラテスは、「自分は、人間にとって大切な事を何一つ知らない」と考えていた為に、その後、世間で有名な知者と言われる人々を尋ね始めたのです。
そして、実際に知者と言われている人々と会って話をしてみると、ソクラテスは、ある一つの大きなことに気がついたのです。
それは、世間の知者達は、人間にとって、最も大切なことを知らないということさえ意識していない、と言う事でした。
「これは知者と呼ばれる○○様、一つ私に教えて頂きたいことがあるのですが」
「何じゃね、ソクラテス君、私は何でも知っているから、何でも質問してくれ給え」
「私がこうして生きていることは、何故なのでしょうか」
「それは食事をして、仕事をして、運動をして、トイレに入って、睡眠を取っているからだよ」
「本当に、それだけですか?」
「それでは、何の為に、食べるのでしょうか?」
「「それは、腹がすいていては、何にもできないからである」
「生きることにおいて、善とは何だと思いますか?」
「他の人よりも快適で、健康で豊かな生活をしていくことである」
ソクラテス自身は、最も大切な事を知らないということは知っている、ということに気がつきました。そして、その「無知の知」を自分は知っているという点において、自分は、他の知者よりも智慧があるのではないか、と考えるようになったのです。自分がある事柄について、知らないという自覚になった時に初めて、その事柄を知ろうとするからです。「知への愛」がここに始まるのです。
「パイドン」に書かれているように、ソクラテスの最期は非常に考えさせられる出来事です。彼がいつも考えていたことは、「本当の善とは何か」ということでした。
「青年達を堕落させた罪」「国が認める神々を認めない罪」によって、ある意味おいてイエス・キリストと同じように、彼は死刑に決定されました。
「先生、脱獄できるチャンスです。どうぞ、御逃げ下さい!」
「ダイモン様の許可がないのだ」
「ダイモン様とは関係なく、どうぞ御逃げ下さい!」
「この牢獄にいることが、私にとって、一番の善なのだ」
死刑が確定してから執行されるまで、神々のお計らいによって時間が与えられました。その間、ソクラテスは、いつでも脱獄することができる機会がありました。しかし、ソクラテスは、「本当の善とは何か」ということを考え、ダイモンからの指示がなかった為に、最後まで牢獄に留まり続けたのです。そして、最後の時が来た時に、悠然として毒杯を仰ぎながら飲み、死んでいったのです。
ソクラテスの生きた前半生は、ギリシャがペルシャを破った全盛期であり、後半生は隣国スパルタとの間に起きたペロポネソス戦争の混乱期であり、ギリシャが全世界に対して、最も強い光を放ち続けた時期だったのです。
でも、肉体が牢獄とは悲しい表現ですが、しかし、実際的にはソクラテスが話した通りであり、本当の自分とは、肉体の中に宿る霊的存在なのです。
ソクラテスを受け継いだ人が、弟子のプラトンでした。プラトンは、ソクラテスのイデアの世界と善の本質を、より高度に発展させていった人でした。
プラトンは、想起説を唱えたのです。
「プラトン先生、私達の魂とイデアの関係について教えて下さい」
「私達の魂は、天上界において、イデアという目に見えない総ての原型世界に生きていた。しかし、魂が汚れてしまった為に、地上の物質世界に追放され、肉体と言う牢獄の中に押し込められてしまったのだ」
「イデアって、スピリチュアルな世界のことですか?」
「スピリチュアルの世界よりも、もっと精妙高度な総ての原型世界である」
「では、どうして人間は、イデアの世界を忘れてしまうのですか?」
「地上へ降りてくる途中において、レーテという忘却の河を渡る為に、それ以前のイデアの世界を総て忘れてしまうのだ」
「では、先生、どのようにしたら、イデアを思い出す事が出来るのですか?」
「それは、この地上世界において、イデアを投影したものを見ることによって、忘れてしまったイデアを思い出す事ができるのだ。そのようにしてイデアを想起していくことによって、私達は、物事の真の姿を認識することができるのだ」
私は、ソクラテスやプラトンの考えというものが、現在のスピリチュアルな世界と完全に一致することに驚きを感じるのです。それは、プラトンが語った「洞窟の比喩」にも明確に表れています。
「洞窟の比喩」とは、プラトンの「国家」の中に述べられているものです。
それは、肉体を持って、この地上に生れてきた人間というものが、洞窟の中で、太陽のある光の世界を知らないで閉じ込められた状態のまま、映画という虚像の世界を本当の世界であると、思い込んだままの状態で生きていることを、イデアという真実の世界を知らないで生きている地上人間に喩えて、プラトンが約2400年前に語ったものです。
生まれた時から、深い洞窟の一番深い奥に肉体を身にまとった人間という存在がいるのですが、肉体人間は、その一番、奥の突き当りの壁しか見ることができないようにされている状態なのです。そして、洞窟の入口の外では、太陽があり、強い光が射しているのです。後ろを見ようとしても、いつも暗闇の中で暮らしていますから、太陽の光を見ると、あまりのまぶしさの為に、後ろを振り向くことも、目を開けて見ることもできないのです。
洞窟入口から少し先に、ちょうど目に見えない人形使い達によって、色々な原型が次々に下され、動かされ、音が出されていくのです。
すると、その原型テープが、後方から太陽の強い光に当てられて次々に映像が出て来るのです。それは映画と同じ原理です。映像が一番奥にある洞窟の壁に当って、ちょうどスクリーンのようになって映り、総てのものが動き出し、音を出すことによって、三次元映画が始まっていくのです。
洞窟の一番奥で、正面の壁だけを見ている人間は、それこそが本当の世界だと思い込んで見ているのです。
この三次元映画こそが、この私達が生きる現実世界という映画です。
ソクラテス、プラトンは、この物質という現実世界こそが、神が創った大映画であると語っていたのです。それは真実です。
この真実の世界と、霊的世界と物質世界との二つの世界を一つに結び付けるメカニズムを理解した時、人間は大きく変化していくことができるのです。
そして、この思想こそが、西洋哲学の原点であることを知る時に、総てのものに共通普遍な真理というものが、西洋と東洋の世界を超え、時間を超え、空間を越えた万人に共通な一つのものであることを悟ることができるのです。
ギリシャは、全ての市民が平等に政治に参加する権利を持ち、市民達が話し合いで政治を行う民主制というシステムを造った最初の国家でした。
古代ギリシャでは、紀元前9世紀までの鉄器時代に王政がなくなり、紀元前6世紀まで貴族政が続いて行きましたが、紀元前5世紀頃になると、戦争と、貿易等で富を得てきた平民達の活躍によって、貴族と平民が平等に政治に参加できる民主政が造られたのです。そして、ペルシャ戦争の後、民主政が完成しました。
ギリシャ国家は、貴族、平民、奴隷から構成されていました。この時代の民主政とは、貴族と平民の男子だけが市民権を持っていて、市民として、政治と軍事に参加することができたのです。奴隷は、人間扱いされず、軍隊にも政治にも加わることはできませんでした。
いづれにしても、平民が参加し、話し合いで民主政が行われたというのが、紀元前5世紀~紀元前4世紀というのですから驚きです。
日本では、ちょうど縄文時代から弥生時代へと移行し始めた頃のことです。
そして、日本に初めて民主主義がもたらされたのは、明治22年(1889)でした。それは実に、ギリシャで民主政が行われてから、実に2300年もの後の事なのです。
コバルト・ブルー色の海底から、大小の泡が水面に浮きあがってくるように、古代ギリシャには、神々と英雄達が初めての経験する、輝かしい出来事があったのです。
私がアクロポリスの丘に登り、パルテノン神殿を見た時の事です。
「文明の光が、ここから総ての世界へと発信されたのだ・・・」
世界中が、まだ暗闇に包まれていた時に、ここでは、間違いなく、イデアが放つ真理の光が、ギリシャから全世界へと発信されていたのです。
私が子供の頃、初めてパルテノン神殿を見た時、不思議な感じがしたことを今でも覚えています。
「この建物は、古代に造られたものではなく、最先端の技術によって造られた建造物だよ」
私には、そのパルテノン神殿が、2400年前に造られたものとは、全然、思う事ができなかったのです。すこし、石が崩れていて痛んではいましたが、それほど古い感じは全くしなかったのです。その全体的なバランスや色彩は、充分保っていたからです。
「パルテノン神殿こそ、イデアそのものだ」
それは私達が、この神殿を見ることによって、イデアの世界に存在するパルテノン神殿を想起することできるのでしょう。なぜならば、イデアの世界には、時間がないからです。美しいものは善なるものであり、善なるものは永遠の美を持つものです。そのためにパルテノン神殿は、永遠に美しい光を、今尚、全世界に放ち続けているのです。
「神々が定めたイデアの世界の追求こそ、古代ギリシャ人が夢見たものだったんだ!」
ギリシャは紀元前490年、マラトンの戦い、同480年、サラミスの海戦、同479年、プラタイアの戦いで、アケメネス朝ペルシャを完全に破り、その後、ペルシャの攻撃に備える為に、デロス同盟を結成しました。そして、紀元前461年、ペリクレス将軍の下で、全盛期を迎えたのです。
しかし、紀元前431年、スパルタとペロポネソス戦争が起き、アテネは衆愚政治に陥り、国力は衰退していきました。そしてギリシャはマケドニア王国に敗れ、ローマ帝国に敗れてローマ領になりました。
しかし、そのローマ帝国も、395年に分裂して、東ローマ帝国の支配下になり、1456年、オスマントルコによって滅ぼされていったのです。

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