隠されたポンペイ

西暦79年、8月24日。

「今年も、良いぶどうが一杯採れたから、うまいワインができるな」
「本当に有難いことね。バッカス様に感謝するわ」
「ポンペイは、気候も穏やかで暖かいし、土地は豊かだし、海に出れば色々な魚は獲れるし、タコも貝も美味しいし、町は整備されているし・・・」
「道路は石で舗装されているし、両脇に歩道もあるから本当に安全だわ」
「水だって、栓を回せば、いくらでも出て来るよ」
「そうだな、ポンペイには、上下水道だってあるしな!」
「ポンペイほどの町は、どこにもないわね! あなた!」
「その通りだ。私達は幸せものだよ、本当に!」
「このパン、おいしいね、お父さん」
「それにお前のような美人が、この町には多いし、最高だよ! ワッハッハッハ」
「だって、この町はビーナスの女神様のものですもの、あなた」
「本当にそうだな、我が愛する妻よ!」
「お父さん、闘技場へ連れて行ってよ~」
「闘技場は危ないから、今度にしようねー」
「いやだ~、僕、闘技場でライオンと剣闘士の戦いが見たいんだ!」
「ライオンと剣闘士か、そりゃ、とっても刺激的だからな!」
「ねぇ! 今、とっても強くて、かっこいい剣闘士が出ているんだよ~」
「あら、そう、それじゃ私も、その剣闘士を見てみたいわ、あなた!」
「いつ、その剣闘士が出るのだい?」
「今日だよ、お父さん!」
「そうかぁ、今日か! まいったな!」
「どうして、お父さん」
「闘技場の料金は高いんだよ~」
「私も、その剣闘士の素晴らしい肉体を、ぜひ見てみたいわ~。あなた」
「そうかぁ。ねぇ、円形劇場か、音楽堂じゃ、だめ?」
「私、あの闘技場全体の雰囲気が、たまらないのよ~」
「この前は、いつもと違う人がやっていたよ、お父さん」
「お前、よく知っているな。でも、この前は、ライオンと剣闘士じゃなくて、ライオンと、キリストとかいう変なユダヤ人を信じる奴との戦いだったな」
「あの時の興奮は、忘れられないわ! 最高よ、あなた」
「でも最後は、ライオンに食われちゃったんだよ!」
「そうか、それじゃ、私が公衆浴場へ行った後で、一緒に闘技場へ行こうか」
「あなた、公衆浴場へ行った帰りに、いつもの居酒屋に寄って、闘技場へ行くことを、すっかり忘れないで下さいよ」
「あぁ、分ったよ」
「この前だって、劇場に行くって約束したのに、熱浴室(サウナ)へ行った後で
居酒屋へ行っちゃって、夜遅くまで帰って来なかったじゃないの!」
「そうかい、もう忘れたよ~」
「本当に、自分に都合の悪い事はみんな忘れちゃうんだから! それに美しい女性がこの街へ来たり、珍しい奴隷が来ると、もう夢中になっちゃうのだから」
「ごめん、ごめん、エヘヘ」
「闘技場へ行けるの! ワーィ、ワーィ、やったぁ!」

グラグラ、グラグラ
「何か、大きく揺れてるよ、お父さん! お母さん!」
「大丈夫、大丈夫」
グラグラ、グラグラ、グラグラ
「あなた! 今度の揺れは、前よりずっと大きいわ~」
「動けないよ! お父さん! お母さん!」

「ドドド、ドカーン」
「あなた! 今の音は、一体、何なの?」
「どうやら、ヴェスヴィオ火山が爆発したのかもしれないな!」
「エッ! 御山が爆発したの? お父さん!」
「今、外に出ると危ないから、家の中にいて、少し様子を見てみようか」
「見て! お父さん、お母さん! もう辺りが真っ暗で、ほとんど見えないよ。何か白いものが、どんどん、空から降ってきて積もっているよ! 」

「まずいな、空から石のようなものもドンドン降ってきているな」
「あなた、早く家から外に出て、逃げましょうよ!」
「いや、今、外に出るのは危険だ!」

「グラグラ、ドーン、ドーン!」
「キャー、また大きな噴火だわ、あなた!」
「怖いよ~、怖いよ~」
「あっ、屋根が崩れて来る・・・危い!」
「キャー! あなた~」
「ドドドォーン・・・」

「おい、お前、大丈夫か?」
「・・・・」
「息子よ、大丈夫か?」
「・・・・」
「ゴホン、ゴホン、あぁ、妻も、息子も死んでしまった。どうすればいいのだ! ・・・そうだ! 海まで行けば、助かるかも知れない!」

町は火山の大噴火で大パニック。無数の落石と、石造りの建物の倒壊の中で、人々は、必死で逃げ惑っている。盗人は、この時とばかりに盗みに入るが、石の下敷きになって死んで行く。
犬が繋がれたままで吠えているが、解き放ってくれる人は誰もいない。
子供を持つ女性は、自分の背中を上にして、自分の子供の身体を全身で覆うようにして死んでしまう。
医者が、人を助けようと道具を持って外に出るが、落石で死んでしまう。
動くことができない老人は、どうすることもできずに家の下敷きになって死んで行く。家の中で、親子兄弟姉妹が、身体を寄せ合いながら、呆然としている家族。
お互いの手を取り、声を掛け合いながら、励まし合いながら、灰と大小の軽石が飛び交う中を、必死に逃げていく若い恋人たち。

その後、ヴェスヴィオ火山から、真っ黒な火砕流が、猛烈な速度で町全体に襲いかかって来る。

「グォォォー、グォォォー」
「何だ! あの黒い雲のような流れは?」
「キャー、助けて下さい! 熱いよぅ! 熱いよぅ!」
「熱い、全身が・・、ウワァー」

一昼夜、火山灰は降り続け、翌日の8月25日には5メートルにも達し、ポンペイという町は、完全に埋没してしまいました。
その後、約1700年間、ポンペイという名前は忘れられ、その場所は、「町」と呼び続けられていたのです。

当時の人口・・・約一万2000人
死者数・・・約2000人

最初の大噴火後、多くの人々は町から避難しましたが、一部の裕福な人々は町に留まり続けていました。しかし、噴火の次に発生した火砕流という全く予想もしていなかったものに、多くの人々は飲み込まれてしまったのです。
当時、ローマ海軍の提督であった大プリニウスの言葉が、甥である小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙の中に残っています。 

「火口付近から、松の木のような形の暗い雲を目撃した。雲は、山の斜面を急速に下り、海へ到達し、海も覆ってしまった。太陽も見えなくなった」

大プリニウスは、噴火後、被災者の救助に向かいましたが、火山ガスの為に死んでしまったのです。
火砕流とは、火山が噴火した際に発生した固体物と、高温のガスとが一体となって、斜面を猛烈な速度で流れ下る現象です。
火砕流のスピードは、高温の熱風と共に、猛烈な速度で流れ落ちてきます。時には時速100キロを超えるスピードで、一気に下まで流れ落ちて来くることもあるのです。
ガス成分が多い場合は、ポンペイのように海面上を流走することもあるのです。
火砕流に巻き込まれると、高温の熱風と、一酸化炭素中毒のために死亡する可能性が非常に高くなってしまいます。

2000年前、既に高度な文明都市がポンペイに存在していました。
噴火当時のポンペイにおける生活水準は、産業革命以後の生活レベルに匹敵するものといわれるほどなのです。
ポンペイは、地中海を通って、港に入ってきたローマへの荷物を、近くのアッピア街道へ運ぶ為の重要拠点として発展してきた商業都市でした。
そしてポンペイは、碁盤の目状に通りが造られ、市の中心には広場(フォロ)があり、大通りは石で舗装されていた高度な計画都市だったのです。
道路は舗装化されていて、両脇に歩道があり、横断歩道まで付けられていました。
町には、5000人が収容できる円形劇場がある他、1万5000人が収容できる闘技場、音楽堂、公衆浴場、サウナ、食品市場、レストラン、パン屋、居酒屋30軒、バー、貿易会社、娼婦の館等、様々なものが揃っていたのです。選挙も行われていました。
その頃の東の果ての日本は、当時、弥生時代で、稲作が始まったばかりの時代でした。この時に、既に、上下水道が完備していたというのですから、驚くべき事です。ちなみに、日本が上下水道が完備したのは戦後のことでした。

ポンペイは快楽の町でした。
「娼婦の館」の壁画には、男女の交わりの絵画が、強烈なポンペイ・レッド色によって描かれています。そこには人間の性の営みがありました。
そのレッドは、人間を催眠状態にしていく魔術的色彩であり、人間の生命の根源である血液の色でもあります。そのポンペイ・レッドこそ、ポンペイ・ワールドだったのです。
「ポンペイの世界へようこそ!」
そこには豊満な肉体を持つ美女たちが、妖しげな眼差しで人を魅了していったのです。そこで、子供から大人へのイニシエーションが行われました。

ポンペイの町は、5メートルもの火山灰が積もり、完全に埋もれてしまった為に、当時の物が数多く、保存状態が非常に良い状態で発見されました。
その中に、美しいフレスコ画が残っています。ある裕福な家には、ダリウス大王とアレクサンダー大王の戦いの場面を示す巨大なフレスコ画や、美しい女性のフレスコ画が残っています。
ポンペイには、確かに守護者であるビーナスの化身として、美しい女性たちが多くいました。そのために女性の地位が非常に高かったのです。
穏やかで暖かい地中海性気候、食べ物は豊かで、商業で経済は潤い、町は高度な計画都市です。生きていくことに何も問題はありませんでした。強力なローマ軍によって町は守られ、不自由なことは何一つなかったのです。
また、多くの戦争が続いていく中で、軍人を始めとする多くの人々は、このような町で、心身の疲れを癒していくことも必要なことでした。

そのような環境の中で、隣国であるギリシャの神々と人間との文化芸術を受けたならば、大らかな性の文化が開いて行くことは自然なことでした。
豊かな物質と、高度な計画都市が出来上がれば、そこには素晴らしい文化・芸術が必然的に生まれてきます。それは古代のルネッサンスでした。
ポンペイとは、古代において、ルネッサンスが最初に開いた町だったのです。
しかし、真のルネッサンスを迎えるには、まだ時代が早すぎていたのです。
ポンペイでは物質的繁栄の方が、人間の精神的成長よりも圧倒的に先行していたのです。しかし、精神的成長をしていくには、まだ多くの時間と様々なプロセスを経ることが必要だったのです。
ポンペイが繁栄した時代は、まだ、人間の宗教的意識や、科学や技術の萌芽が、まだ生まれていませんでした。そのために本当のルネッサンスの芽が成長して開花していくためには、1200年という時間を経過していかなければならなかったのです。そして、様々な歴史的過程を通り抜けた13世紀になってから、フィレンツェにおいて、本当のルネッサンスが花開くことになったのです。

「あの、大いなる都が滅んだ! バビロンが倒れた!」

確かに、ポンペイという町は快楽の町でした。
しかし、ポンペイという町を、神が封印しまった原因は、そこで男女の営みが行われていたということが直接の原因とは思えません。そこから発生する殺人、強盗、陰謀、破壊、虚偽、裏切りという犯罪そのものに原因があったのでしょう。

神は、ポンペイという町を、歴史の中から隠してしまいました。
そこには、神の怒りがあったのかもしれません。
それが、ソドム化した人々に対する神の怒りであったのかどうかは、人間には分らないからです。そこに確実にあったものは、人間の様々なエネルギーでした。
ポンペイの町には、その時代に生きていく為に必要であった、人間のあらゆる欲望があったのです。そしてそれと同時に、素晴らしい文化・芸術の息吹があり、ルネッサンスの原点ともいうべきものが確実に存在していたのです。

火山灰の中に、遺体部分だけが腐ってなくなり、その空洞化した部分に石膏を流し込むことによって、隠されたポンペイの姿は、1700年の時を超えて、私達の前に再び現われたのです。

ポンペイの町に生きていた人が、私に語るのです。

「あなたたちも、私達、ポンペイの様にならないように・・・」

ヨーロッパ編

中近東編

1.イスラエルへの出発
2.イスラエルでの一か月
3.ユダヤの神殿と、イスラムの聖地
4.トイレ探し大冒険 イン エジプト
5.ルクソールでの太陽の夢

アジア編

1.カラチの出来事
2.ダライ・ラマとの出逢い
3.ラダック・レー(1)マンダラ祭
4.ラダック・レー(2)出逢いと発見
5.ラダック・レー(3)事故
6.スリナガルの夢
7.サールナートの情熱(未完成)
8.聖地バラナスィ
9.フィリピンでの治療